明々庵
明々庵は茶人として知られる松江藩七代藩主松平不昧公の好みによって、松江市殿町の有澤(ありざわ)家本邸に建てられ、不昧公もしばしば臨まれた席である。一時は東京の松平伯邸に移されていたが、その後松平家から郷国出雲に帰され、昭和3年菅田庵(かんでんあん)のある有澤山荘の向月亭(こうげつてい)に隣接した萩の台に建てられていた。大戦後、管理が行き届かず、荒廃していたのを、昭和41年、不昧公150年祭を機に現在の赤山の大地に移された。茅葺の厚い入母屋に不昧公筆の「明々庵」の額を掲げ、茶室の床の間は、五枚半の杉柾の小巾板をそぎ合わせた奥行きの浅い床で、また二畳台目の席は中柱もなく炉も向切りといった軽快なものとなっており、定石に頓着しない不昧公の好みの一端を伺うことができる。