宝暦元年(1751)~文政元年(1818)雲州松江藩七代藩主、幼名を鶴太郎、名を治郷(はるさと)といい、未央庵(みおうあん)・一々斎(いちいちさい)・宗納(そうのう)・不昧などの号をもっている。不昧の号は、江戸天真寺の大顛和尚(だいてんおしょう)が、無門関百丈野狐(むもんかんひゃくじょうやこ)の章「不落不昧(ふらくふまい)」から命名したもので、公は特にこの号を愛用した。17歳で襲封し、国家老朝日丹波(あさひたんば)の補佐を受けて藩政改革を行ない治績をあげた。また若くして茶を学び、二十歳で真の台子(だいす)の伝授を受けている。茶事の奢侈贅沢(しゃしぜいたく)を戒め、茶道は修身治国の資(もと)たるべきを茶道随筆「贅言(むだごと)」で説いたが、家政が豊かになるにしたがい名物茶器収集に没頭し、「古今名物類聚(ここんめいぶつるいじゅう)」十八巻の大著をはじめ、多数の書物を著している。収集の名物は代々大切にすべきを論して、品目は「雲州蔵帳(うんしゅうくらちょう)」として知られる。文政元年4月24日江戸大崎で68歳の生涯を終えた。
松平不昧公
松平不昧公系図